APHEX TWIN 2014 !!!!

“新しい方法で表現しようというムダな努力はやめなさい、と言いたいです。それよりもいい作品を作ること。いいか悪いか、それだけ。それを目標にしなさいと言いたいです。”

美輪:アイドル文化のような「祭り」は、芸術ではなく遊び(プレイ)のジャンルでしょう。ディズニーランドのように、ミッキーマウスや白雪姫と握手して、ゆるキャラと抱き合って。そういう遊びなんです。5万人、10万人の観衆が集まった、というのが随分ニュースになるけれど、そういったところで求められているのは「参加」であって「鑑賞」ではありません。

―なるほど。

美輪:本当に音楽を聴きにいくわけじゃありません。ステージ上の歌い手は米粒くらいにしか見えなくて、どういうふうな身振りで歌や音楽を表現しているかなんてわからない。だからお客さんはペンライトを振り回して、みんなで絶叫する。浅草の三社祭に行くのと同じようなノリです。

―「祭り」と「芸術」は美輪さんの中ではまったく別物でしょうか。

美輪:まったく違います。祭りでは、思索をしたり、反省したり、奮い立ってみたり、モチベーションを高めたりすることはできません。「あー楽しかった、明日もがんばろう」。それで終わりでしょう? それはそれでいいんですけれど……。

―精神的な煩悶があって、何かを得るのが芸術であるわけですね。

美輪:その人の一生を左右する何かを思いついたり、人生の深いところで役に立つ何かを得られる。そういう力を得られるものが芸術です。ただ快楽を得られるだけでは、芸術ではありません。

―19世紀後半から20世紀初頭に活躍した音楽家のエリック・サティは、現在のBGMの元祖と呼べるような反復的な音楽を発明しました。それはアンビエントミュージックやミニマルミュージックの先駆でもあります。

美輪:でもサティなんかは、フレーズが長いんです。だから、同じ音の繰り返しであっても酔えるんです。一小節を繰り替えすのではなくて、4小節、8小節くらいを繰り返している。それに楽器自体もアナログですし。

―MIDIの発明以降、音をどんどん微分化していくような音楽が現れたくらいから変わっていったのでしょうか?

美輪:音楽ではなくなっていったというのが正しいです。ノイズになっていった。それがすべてのジャンルに共通していることが恐ろしいです。多くの人がノイローゼになったり引きこもりになったりしている原因のひとつでもあると思います。

―無味乾燥な反復が人々の暮らしに悪影響を及ぼしている?

美輪:というよりも、これは音のない世界です。美しい音楽に接している人がいない。美しい音楽というのはビタミンだから、ビタミンを補給できなくなってしまう。だから音楽のない人というのはキレやすいんです。あと会社の照明も無機質なLEDや蛍光灯でしょう。コンクリートやガラスだけの建築。そういったものが精神的に人間を破滅に追いやっているわけ。職場も住まいも着るものも音楽も、叙情性が何もない。全部モノクロの時代になっているんです。

美輪:今のみなさんは詩を読む習慣がありませんから。北原白秋、萩原朔太郎、ポール・ヴェルレーヌ……。詩情あふれるものに触れていないから、詩が遠いものになってしまっている。それとね、今の歌詞は「ぎなた読み」が多いでしょう。

―ぎなたよみ?

美輪:「弁慶が、なぎなたを持って」というセリフを「弁慶がな、ぎなたを持って」と、あえて誤った区切りで歌うことですね。どこで息継ぎをすればいいかわからず日本語になっていない。でも今はそんな言葉でも平気で受け取ってしまっているでしょう。

―メロディーだけでなく、言葉が美輪さんにとって重要なんですね。

美輪:だって言葉から世の中は成り立っているんですから。言葉って恐ろしいです。

“日常に近すぎて、芸術性というものがないんです。ストレス解消のためにカラオケで歌うぶんにはいいでしょうけれど。でも、夢の世界に飛翔することできません。優れた芸術性のあるものは、夢へ飛翔させてくれる力があり、同時に日常性もあって親しめるものなんです。”

美輪:歌は世につれ、世は歌につれ。私の若い頃は、歌と時代が密着でしたね。それから、歌にメロディーがありました。

―メロディー?

美輪:今はメロディーがない時代でしょう。若いシンガーソングライターの方からCDを贈っていただく機会が多くあって、感想を求められることも多いんですが、私は感想が持てないんです。まずメロディーがない。おそらくヒップホップやラップの影響でしょう。

―「語り」が中心になっている?

美輪:「ダガディガダガダガディガダガ」……こういうものの繰り返しでメロディーがないんです。無彩色なんです。それで、時々は申し訳ないと思うんでしょう。「ダガディガダガダガディガダガ……ラーラー!」って突然、一音か二音上げるか下げるかしている。それと歌詞が全部「Twitter」的なんです。詩ではないんです。

―140字におさまるような短い文ということですか?

美輪:というよりも、字余りということです。例えば童謡の“朧月夜”は、<菜の花畑に 入日薄れ 見わたす山の端 霞ふかし>っていうふうに、ちゃんと韻を踏んだり、五・七・五になっていたりしますでしょう。そして、言葉の一つひとつからぱーっと情景が出てくるようなポエム、詩になっている。“朧月夜”なんて、タイトルからして美しいじゃありませんか。

“安倍政権になって、一気にきな臭くなっている。先日も集団的自衛権の新たな解釈を閣議決定で強行に主張していたけれど、鉄もニッケルも石油も資源が何もかも自国から産出できないのに、軍隊を持とうだなんておかしいです。資源がなければ戦い続けられるわけがありません。太平洋戦争では、精神論だけでケンカを挑んでボロボロになったにもかかわらず、それをまたやろうとしているわけでしょう?”

“昔はアコーディオンの音があちらこちらから聴こえてきたのに、おじいさんおばあさん相手のカフェやミュージックホールに行かなければ聴くこともできない。その状況を見て、亡くなった筑紫哲也さんも「パリはもうおしまいだ!」とおっしゃっていました。アメリカ音楽にしても、エルヴィス・プレスリーが登場する1950年代の半ばまではイングランド、スコットランド、アイルランド、ドイツ、フランス、イタリア……そういった移民たちが作った文化が中心的でしたから、とてもロマンティックでした。ニーノ・ロータ(イタリアの作曲家。クラシック音楽と映画音楽を手がけ、代表作にフェデリコ・フェリーニ監督作品、フランシス・フォード・コッポラ監督『ゴッドファーザー』など)がイタリー人特有のマイナーなメロディーの曲を発表したり。歌い手にしても、トニー・ベネットやヘレン・メリル(アメリカの女性ジャズ歌手)なんて、もう聴いているだけうっとりと酔えるような才能がたくさんいらっしゃった。”

ーーメロディのあるポップスとは違って、ノイズの演奏における納得できるポイントというのが僕にはわからないのですが、メルツバウにおいて、それはどこにあるのでしょうか。

秋田 : ライヴの場合だったら大音量が出ないと駄目だというものもあるし、全部即興でやっているわけじゃなくて、ある程度こういうことをやろうと決めてやっているから、それができれば満足ということです。

ーー構成みたいなものがあるんですね。ライヴは、どういう点に焦点をあてて演奏されているのでしょう。

秋田 : ライヴの場合、大体パルスみたいなループが低音で鳴っていて、その上に中域、高域といろいろな音をかぶせていくんです。それで音をガーッとかき混ぜて、やっぱりツボを探っているっていうかね、音の流れをコントロールしながらうまくツボにはまるっていうか、その瞬間を探っている感じですかね。

秋田 : 最初の頃はコンピュータの音に新鮮味があったんですがだんだん面白みに欠けてきたというか。そういった音的な問題で使わなくなりました。

ーー画一化じゃないですけど、均一化したノイズになってしまうというかそういうことでしょうか? 今、ライヴで使っている楽器は秋田さんが作られたものですよね?

秋田 : そうですね。今はアナログ機材の方が出したい音が出せる。楽器はもともと90年代に作ったもので、その後改良を加えています。ただ中にコンタクト・マイクが入っているだけなんですけど。

ーー中心の円形のものは何でできているんですか。

秋田 : あれはフィルムケースです。それにバネが張ってあって、その中にコンタクト・マイクが入っている。下についているのは、もともとは蛍光灯の枠です。

ーーそうなんですね。ほかには何を使っていらっしゃるんですか。

秋田 : あとは、ファズ、ディストーション、ビット・クラッシャー、トーン・ジェネレーター、オシレーター、サンプラー等です。

“90年代終わりから2000年代半ばまではほとんどラップトップだけでやっていました。日本でもラップトップを使うっていうのは今ではほとんど当たり前ですけど、当時はノイズ・シーンの中では誰もやってなかったですね。僕は海外で一緒にライヴを行うことが多かったmegoの連中やZbigniew Karkowskiなどの影響でコンピュータを使い始めたんです。”

“シュルレアリスムでもバタイユに一時心酔していましたけど、動物供犠(くぎ)だとか闘牛だとか、そういうものが出てくるせいで彼の思想は今は完全に受け入れられませんね。動物の権利を侵害しているものは全てダメだっていうことになるから。僕の中ではアニマルライツが思想を判断する際の優先順位の一番目ですね。”

“「暴力的な音楽」と言うのは音楽的既成概念を破壊したり、社会に対する怒りであったり、といった様々な衝動の現れであって、現実の暴力とは違うということです。”