“昔よく聴いていたエレクトロニック・ミュージックをこの4~5年、ふたたび聴くようになった。最近のクラブ・ミュージックにがっかりしていたからね。最近のクラブ・ミュージックは、使い捨て感があって、鋭さが何もない。まるで工場で次から次に作られているみたいだ。”

“音楽には、ここでこんな音楽を演奏してはだめだといった制約はもはやない。音楽がどんどん自由になってきているのに、言葉は不自由になってきている”

“物事に打ち込むには、沈黙が必要で、ため込む時間がいる。なのにSNSで毎晩、毎分のようにコメントしていたら、時間なんか作れない。好きでやっていると思っていたら、いつのまにかドラッグのようにコメントを強要されている。そのうえ素人なのに『こんなこと書いたら嫌われる、たたかれる』とか、まるで玄人のように自己規制をしている。『キジも鳴かずば撃たれまい』ということわざがあるが、『鳴きたい(書きたい)けど、撃たれ(たたかれ)たくない』という感じになっていて、結局いらいらして鳴いて(書いて)しまって、撃たれる。つまり、ネット上でたたかれて炎上する。こんな繰り返しの中でクリエーティビティーなんて生まれるわけがない。SNSにもいいところはあるが、若者は発信することに疲れ果て、発信して批判されることにも疲れている”

“荒井さんのデビュー作『新宿乱れ街 いくまで待って』(77年)の監督がロマンポルノの名匠の一人だった曽根中生監督で、偶然だけど光石さんのデビュー作『博多っ子純情』(78年)も曽根監督の作品。その曽根監督の下で助監督を務めていたのが相米慎二監督で、相米さんの助監督だったのが黒沢清監督で、僕は黒沢さんの助監督でしたから。さらに言えば、曽根監督は鈴木清順監督の助監督だったから、日活プログラム・ピクチャーの流れから言えば、僕は正当な流れを汲む5代目の監督なんです”

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“新しい方法で表現しようというムダな努力はやめなさい、と言いたいです。それよりもいい作品を作ること。いいか悪いか、それだけ。それを目標にしなさいと言いたいです。”

美輪:アイドル文化のような「祭り」は、芸術ではなく遊び(プレイ)のジャンルでしょう。ディズニーランドのように、ミッキーマウスや白雪姫と握手して、ゆるキャラと抱き合って。そういう遊びなんです。5万人、10万人の観衆が集まった、というのが随分ニュースになるけれど、そういったところで求められているのは「参加」であって「鑑賞」ではありません。

―なるほど。

美輪:本当に音楽を聴きにいくわけじゃありません。ステージ上の歌い手は米粒くらいにしか見えなくて、どういうふうな身振りで歌や音楽を表現しているかなんてわからない。だからお客さんはペンライトを振り回して、みんなで絶叫する。浅草の三社祭に行くのと同じようなノリです。

―「祭り」と「芸術」は美輪さんの中ではまったく別物でしょうか。

美輪:まったく違います。祭りでは、思索をしたり、反省したり、奮い立ってみたり、モチベーションを高めたりすることはできません。「あー楽しかった、明日もがんばろう」。それで終わりでしょう? それはそれでいいんですけれど……。

―精神的な煩悶があって、何かを得るのが芸術であるわけですね。

美輪:その人の一生を左右する何かを思いついたり、人生の深いところで役に立つ何かを得られる。そういう力を得られるものが芸術です。ただ快楽を得られるだけでは、芸術ではありません。

―19世紀後半から20世紀初頭に活躍した音楽家のエリック・サティは、現在のBGMの元祖と呼べるような反復的な音楽を発明しました。それはアンビエントミュージックやミニマルミュージックの先駆でもあります。

美輪:でもサティなんかは、フレーズが長いんです。だから、同じ音の繰り返しであっても酔えるんです。一小節を繰り替えすのではなくて、4小節、8小節くらいを繰り返している。それに楽器自体もアナログですし。

―MIDIの発明以降、音をどんどん微分化していくような音楽が現れたくらいから変わっていったのでしょうか?

美輪:音楽ではなくなっていったというのが正しいです。ノイズになっていった。それがすべてのジャンルに共通していることが恐ろしいです。多くの人がノイローゼになったり引きこもりになったりしている原因のひとつでもあると思います。

―無味乾燥な反復が人々の暮らしに悪影響を及ぼしている?

美輪:というよりも、これは音のない世界です。美しい音楽に接している人がいない。美しい音楽というのはビタミンだから、ビタミンを補給できなくなってしまう。だから音楽のない人というのはキレやすいんです。あと会社の照明も無機質なLEDや蛍光灯でしょう。コンクリートやガラスだけの建築。そういったものが精神的に人間を破滅に追いやっているわけ。職場も住まいも着るものも音楽も、叙情性が何もない。全部モノクロの時代になっているんです。

美輪:今のみなさんは詩を読む習慣がありませんから。北原白秋、萩原朔太郎、ポール・ヴェルレーヌ……。詩情あふれるものに触れていないから、詩が遠いものになってしまっている。それとね、今の歌詞は「ぎなた読み」が多いでしょう。

―ぎなたよみ?

美輪:「弁慶が、なぎなたを持って」というセリフを「弁慶がな、ぎなたを持って」と、あえて誤った区切りで歌うことですね。どこで息継ぎをすればいいかわからず日本語になっていない。でも今はそんな言葉でも平気で受け取ってしまっているでしょう。

―メロディーだけでなく、言葉が美輪さんにとって重要なんですね。

美輪:だって言葉から世の中は成り立っているんですから。言葉って恐ろしいです。

“日常に近すぎて、芸術性というものがないんです。ストレス解消のためにカラオケで歌うぶんにはいいでしょうけれど。でも、夢の世界に飛翔することできません。優れた芸術性のあるものは、夢へ飛翔させてくれる力があり、同時に日常性もあって親しめるものなんです。”

美輪:歌は世につれ、世は歌につれ。私の若い頃は、歌と時代が密着でしたね。それから、歌にメロディーがありました。

―メロディー?

美輪:今はメロディーがない時代でしょう。若いシンガーソングライターの方からCDを贈っていただく機会が多くあって、感想を求められることも多いんですが、私は感想が持てないんです。まずメロディーがない。おそらくヒップホップやラップの影響でしょう。

―「語り」が中心になっている?

美輪:「ダガディガダガダガディガダガ」……こういうものの繰り返しでメロディーがないんです。無彩色なんです。それで、時々は申し訳ないと思うんでしょう。「ダガディガダガダガディガダガ……ラーラー!」って突然、一音か二音上げるか下げるかしている。それと歌詞が全部「Twitter」的なんです。詩ではないんです。

―140字におさまるような短い文ということですか?

美輪:というよりも、字余りということです。例えば童謡の“朧月夜”は、<菜の花畑に 入日薄れ 見わたす山の端 霞ふかし>っていうふうに、ちゃんと韻を踏んだり、五・七・五になっていたりしますでしょう。そして、言葉の一つひとつからぱーっと情景が出てくるようなポエム、詩になっている。“朧月夜”なんて、タイトルからして美しいじゃありませんか。

“安倍政権になって、一気にきな臭くなっている。先日も集団的自衛権の新たな解釈を閣議決定で強行に主張していたけれど、鉄もニッケルも石油も資源が何もかも自国から産出できないのに、軍隊を持とうだなんておかしいです。資源がなければ戦い続けられるわけがありません。太平洋戦争では、精神論だけでケンカを挑んでボロボロになったにもかかわらず、それをまたやろうとしているわけでしょう?”

“昔はアコーディオンの音があちらこちらから聴こえてきたのに、おじいさんおばあさん相手のカフェやミュージックホールに行かなければ聴くこともできない。その状況を見て、亡くなった筑紫哲也さんも「パリはもうおしまいだ!」とおっしゃっていました。アメリカ音楽にしても、エルヴィス・プレスリーが登場する1950年代の半ばまではイングランド、スコットランド、アイルランド、ドイツ、フランス、イタリア……そういった移民たちが作った文化が中心的でしたから、とてもロマンティックでした。ニーノ・ロータ(イタリアの作曲家。クラシック音楽と映画音楽を手がけ、代表作にフェデリコ・フェリーニ監督作品、フランシス・フォード・コッポラ監督『ゴッドファーザー』など)がイタリー人特有のマイナーなメロディーの曲を発表したり。歌い手にしても、トニー・ベネットやヘレン・メリル(アメリカの女性ジャズ歌手)なんて、もう聴いているだけうっとりと酔えるような才能がたくさんいらっしゃった。”